ここに置いておきますね。

脳みそから取り出した駄文の書き置き

ピアスを開けたことがビッグニュースだったあの頃。今はどうだ。

1年前くらいに、親子ほど歳が離れた従姉妹から、自撮りが送られてきた。

従姉妹はもともと私への報告がある際は、自撮り送ってきがち。
「誕生日プレゼント届いた!」(withプレゼント)
「大学の入学式行ってきた!」(at正門)
「成人式の前撮りした!」(at写真館)
私は彼女にとって、姉と母の中間みたいな存在なので、毎度微笑ましく送られてきた画像を見てた。

ところがその日は、微妙な自撮り。照れ隠しの変顔はまぁ、無視して。(無視するな)

文章を読むと「ピアスを開けた!」とのこと。
あ〜たしかに耳に、今までなかったポッチが付いておるわい。当たり前に「かわいいピアス送るわ〜」と返信。それ以降、そのことを今の今まで思い出さなかった。

そして1年以上たった今日、あぁそうか、ピアスを開けたって、あの子にはビッグニュースだったんだと、理解した。(激遅)

人の痛みも、喜びも、ビッグニュースも、理解できる人間になろうと、いつも考えている。ピアスなんて、そのすべてに該当する稀な例じゃないか。

痛みを伴うけれど幸せ!なんて、あとは出産くらいか?歯列矯正もか。手術して元気になることもそうか。正直このあたりは、「よかったね!お疲れ様!」とすぐに思いついて言葉に出せる。労を労って、心から祝福できる。

でもピアスがビッグニュースであることに気がつくのには1年かかった。

私は「ピアス開けてもう10年くらいかな?」って、10年くらい言い続けてた、とこの記事を書くにあたり、気がついた。(私のピアスの穴はもう成人しとんのか、マジか)

自分が開けた時のことは、今でも覚えている。左右いっぺんに、母と兄にやってもらった。ピアッサーでバチンバチンとね。
(痛みは一度に終わらせたいタイプ)
(親知らずも一度に二本抜いた)
(魂が死んだ)

そして少し間を置いて、3つめは自分でやった。痛かったけれど、あの時たしかに高揚した。大人になったんだと思った。

そういえば当時はまだ「ピアス=チャラチャラしてるヤツ」って認識があったなぁ。「親にもらったカラダに!?」みたいな、そういう拒絶感というのか。日本人にとって、ピアスという文化が新しかったんだよね。根付いてなかったんだと思う。ふふふ、思い出すとちょっとかわいい。

人生でやってよかったことって、いくつかあるけれど。ピアスはまず間違いなく、上位にランクイン。

(あと地味に結婚も、相手が夫でよかったとしみじみ思う)
(夫じゃなかったら今頃、バツイチか2ぐらいいってた上に、現在子持ちのシングルマザーで、しょーもない彼氏と貧乏暮らししてたと思うわ)

それぐらい私にはピアスって特別なもの。そんな風に振り返れるのに、従姉妹のピアスデビューに関しては「?」だった。

言い方が難しいけれど、超素直に言うなれば「あ、なんだ、そんな程度のこと」みたいな感じだったんだよね。本人的にはどんな経緯で、とか、今どんな痛みで、とか。ファーストピアスをどれにした、みたいのを話したかったはず。私だってそうだったから。けれど、今の私には「あ、なんだ、そんな程度のこと」になってしまう。

 

人は大きな変化を受け入れたり、受け流すことで大人になる。そうやって繰り返してくうちに、ピアスを開けたことの重大さはどんどん小さくなる。終いには日々の幸せを「再」発見するために、小さな変化に「意識的に」目を向けることに手を出す。小さな変化なんて、日々そこら中に落ちているのに。意識しないと通り過ぎてしまうんだよね。

最近、気分転換にピアスをふたつ買った。派手で大ぶりなものと、シンプルで小さいもの。極端なチョイスだった。正直、それぐらい露骨なメリハリをつけないと、もうなんだかわからないんだよねー。

 

大人になるって、麻痺することなのか。20代後半くらいまで、多感すぎて、感覚がキンキンに研ぎ澄まされてて、無駄にキズついたり、無駄に感動したりしてすごく疲れていた。今はこれで、ちょうどいい。

 

さて、従姉妹の誕生日も近いし、プレゼントでも選ぼうかね。

 

よっこいしょ。(ババァか)